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苧蘿山人(ちょらさんじん)
苧蘿山人(ちょらさんじん)について
江戸時代の中期、医師、漢詩人、画家、また篆刻(てんこく)家でもあった多彩な芸術家、苧蘿山人。多田蔵人行綱の末裔で本名を原康矦(はらこうこう)または多田玄介(1731~1788)と称し天明8年5月12日に病没しました。その墓石が当山の共同墓舎羅林堂前に移設されています。
江戸時代、当山近くの平野温泉で医者として村人の医療にたずさわり、人々から尊敬された苧蘿山人こと多田玄介は、もと石川県能登鳳至郡鵜川村(現 鳳珠郡能登町)の出身。父は加賀藩十村役(大庄屋)でしたが、職を辞して金沢に移り住み荻生徂徠の門人となります。玄介は三男で、金沢で育ち、儒学・絵画・篆刻を学び、後に京都で山脇東洋に医術を学びました。京畿に流浪して医者となり明和の中頃、摂津川辺郡平野村に移り住むと伝わります。
以下はその足跡を綴った宇崎壽美子(うざき すみこ)氏の著書「苧蘿山人を追って」より抜粋転載。
摂津多田郷ヘ
江戸時代、平野温泉は摂津三湯(有馬温泉、平野温泉、一庫温泉)として有名で、現在の能勢電鉄平野駅周辺には、24、5軒の温泉宿があったと伝え聞く。苧羅山人の墓碑には「摂津川辺郡平野村多田院温泉郷」とあるが、当時、温泉郷に浴客のために備えた医師に欠員があったため、多田玄介は平野温泉に寄宿することにした。自分の先祖の源満仲が開発した日本の武士団発祥の地、多田を自分の眼で確かめたかったのである。
多田玄介がたどった大阪から平野温泉までの行程は、まず淀川を十三の渡しで越えて池田街道を北へ北へと歩き、池田から猪名川に架かる呉服橋を渡り、更に多田街道(妙見街道)を北へ歩いて、2日をかけて多田にたどり着いたことだろう。
苧羅山人の墓の碑文は言う。「多田院温泉境の風景愛すべし。自ら思えらく其ノ所を得たる哉(ここが自分の住むべき所だと思った)」「郷党に技たり(村の人に医術を施した)、杯酒の平生は窮居すといえども(お酒の好きな日常生活は充分ではないが)、癈疾(はいしつ)の者には遠きも近きも薬をあたう。あえて人に驕(おご)らず、人また久しうしてこれを敬う」と。
多田玄介が寄宿した温泉宿の周辺は、明和、安永、天明期には平野山の山裾の新田開発が進み、農村人口も増加しつつあった。現在もその山裾には「新田」の地名が残っている。
玄介は、温泉の沐浴客だけでなく、平野村周辺の人々に医者として愛され、頼りにされたのである。
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